【シンエヴァ】思ったことを書く
こんばんは。
今日はシンエヴァを見ました。内容等について思ったことを書きます。
また見に行く時のためのメモのつもりですが、一応人が見ることを想定して書きます。
内容に関する感想などはウェルカムです。
ぼくがどれくらいちゃんと答えられるかはわかりませんが……。
<ネタバレ注意>
内容
1. 今回の人類補完について。
2. 今回のサブタイトルについて。
3. 感想。
以上です。
他にも思ったことはあるような気がしますが、風呂の中で考えたのがこの2つだったので今日はこれだけ書きます。修正、削除の可能性はあります。
1. 今回の人類補完について。
今回の作品でも人類補完が起きました(作中の言葉で正確に言うなら『魂の浄化』)。
あれこれ考えたのは人類補完をシンジくんが止めた後の世界の違いについてです。
旧劇、漫画、新劇の違いと解釈をしてみました。
アニメは一旦置いておきます。
漫画は特にうろ覚えなので読み直したら修正するかもしれないです。
1. 旧劇
世界
アスカと2人きり。首絞めエンド。
解釈
アスカは精神崩壊。レイは自爆、カヲルくんは使徒、ミサトさんは戦死。
好きな人をみんな失ってきたシンジくんは「失うくらいなら何もない世界」を望んだ。
2. 漫画
世界
記憶消去、みんな(?)転生エンド。
解釈
トウジを自分の手で殺したりするも、レイを通じて他人という存在の良さを認識したシンジくんは「他人がいる世界」を望んだ。ただ、レイはその世界に加えてあげられなかったので、記憶の継続性はどうでもよかった。
3. 新劇
世界
世界存続エンド。
解釈
自らの選択によって世界に取り返しのつかない変化をもたらしたが、友人や仲間たちの愛を実感したシンジくんは「ありのままの世界」を望んだ。自分ができる限りの後始末はやった。
メモ
メモなので、この解釈が正しいか正しくないかみたいな考察は投げっぱにします。
意味合いとしては、「自分→他人→特定の他人」の順でシンジくんが世界に残してもいいかなと思えるものが増えていったというところにあるのかなと思います。
自分のことを知っている人ほど、その人から善意や悪意を強く感じやすいと思うので、漫画では悪意を恐れて関係をリセットし、新劇では善意を受け止めてそのままにしたのかなと思っています。
次の考察と合わせて、人の愛を実感する作品だなと思いました。アニメ最後の「おめでとう」をわかりやすくした、みたいなイメージがあります。
2. 今回のサブタイトルについて。
今回の映画のサブタイトルは
"Thrice upon a time."でした。思ったことが2つあるのでメモします。
1. サブタイトルの意味
端的には何が3回だったのか、という話です。
・人類の補完
アニメと旧劇を同一視するかにもよると思いますが、これなのかなーと映画を見た直後くらいは思いました。
・シンジくんの新劇での選択
次にこのことについて語るので割愛します。今はこっちの解釈の方を気に入ってます、なんとなく、現象の回数を数えるのが味気ないので。
2. 前作との比較
序:YOU ARE (NOT) ALONE.
破:YOU CAN (NOT) ADVANCE.
Q:YOU CAN (NOT) REDO.
シン:Thrice upon a time.
過去3作品と今回とで、サブタイトルの形式が違うことは映画中に気づきました。
過去3作品ではいずれも、シンジくんがエヴァに乗る理由がサブタイトルとして現れており、乗らなかった別の世界線にも思いを馳せることができるようなサブタイトルでした。
一方、今回はそんなシンジくんの思いとは関係ないサブタイトルでした。
理由としては、今回のシンジくんには「エヴァに乗らない」という選択肢が存在しなかったからではないかと思っています。
誰から強制されたわけでもなく、かといって逃げる必然性もなかったように見えました。初めこそ無気力シンジくんでしたが、エヴァとは関係なしに人との触れ合いによって立ち直り、素直にヴィレのよくわからん部屋に監禁され、他に打つ手なしとなった時に自分から乗ると言ったシンジくんには、もはや別の世界線なんてものは存在しないんだなと思いました。
こんなシンジくんを作り上げたのは間違いなく友や仲間の愛なんですよね。
今作はキャラがよくしゃべるなって思ってたけど、補完計画が発動する前から人のそういう想いに触れられたシンジくんは最強なんだなって思いました。
……なんかさみしい。
3. 感想。
上のも十分感想の域を出ませんが、カテゴライズできなかった雑多な感想です。
・Qってなんだったんだろう……
あの絶望しかないのはなんだったんだろう。希望のための踏み台かな……(声優繋がりの別作品を思い出しました)。
・シンジくん変わっちゃったなぁ……
ぼくはあのシンジくん好きじゃないです。もっとこう、他人を恐れてて、それでも他人を愛そうと頑張る独りよがりなシンジくんが好きでした。なんか、人から発砲されても動じないのは成長なんだろうか。ぼくはただシンジくんが厚かましくなっただけなんじゃないかなと思ってしまいます(現在進行形)。
とりあえず以上です。書きたいことをかけて満足しました。
12日目 主体感と所有感
どうもおはこんにちばんは、ななみんびーむです。
最近FF4TAをやっていて、勉強が進みません。
今回読んだ論文は、Interplay of agency and ownership: The intentional binding and rubber hand illusion Paradigm Combined(Braun, Thorne, Hildebrandt, & Debener, 2014)です。
要約
主体感は運動を企図・制御しているという現象的経験を指す。一方、所有感は身体のパーツに対する主体的経験が自分のものであるという感じを指す。主体感はintensional binding、所有感はRHIを用いて調べられる。主体感と所有感の関係性について、intentional bindingをRHIに組み込むことによって調べた。どちらも位置と主体性で変化した(変化の仕方は違いがあった)。内部指標と外部指標はあまり相関しなかった。intentional bindingは自発運動を観察したときよりも自分で生み出した時の方が強かった。今回の実験の結果は主体感と所有感の二重乖離をより強く示すものであり、自分の運動と自発運動の観察では適度なintentional bindingが異なる。
メモ
[1-2, 20-22]
潜在主体感と顕在主体感 [23]
潜在:低次、前反射的、無概念的、feeling of agency
顕在:causality[1]; 内部予測モデル:高次、信念的、運動の主体性の解釈のプロセス
Active virtual hand
参加者の手と(非)同期して動く → visuomotor (a)synchrony
Kalkest & Ehrssonの実験パラダイムと似たものを使用
所有感 <- moving, not necessary tactile
連続的な固有感覚の情報(指を動かした時に得られる固有感覚情報)はproprioceptive driftを阻害しなかった
視覚情報と固有感覚情報が一致してれば再測定は必要ない
Incongruent position -> ×所有感 ○主体感
Observed movements -> ○所有感 ×主体感
Perceived SoO <- agent factor
Perceived SoA <- position factor
遠心性コピー 運動の主体性 + 運動感覚処理? [45,47]
Intentional binding with artificial hand
Implicit と Explicitで測ってるものが違う?
Experience of owning a body / Experience of being a body with a given location within the environment
10日目 ラボ勉強会
どうもおはこんにちばんは、ななみんびーむです。
今日はラボの勉強会があり、KOの博士やあたるの名前知ってる先生がいらしてたのでその内容をチラッと思い出しつつ、愚痴ります。
あたるの方の説明
・予測誤差=カーソルの動き-ペンの動き
それぞれ、視覚感覚と固有情報的に少しずれていて補正されている
・予測誤差と最小化原理
まぁわかんないからこれでいくよね。
・脳刺激(tDCS、TMS)
抑制すると機能が全体的に落ちるけど、促進すると部位-機能がわかるのではないか、なるほどって感じだ。
うちのOさん
・主体感のデコーディング
できてるみたい、なんなら予測誤差か自他帰属判断かまではわかるらしい、すげぇ。
でも、今のAgencyのパラダイムはここまでしかないから、デコーディングはこれ以上は進まなそうだな。
うちのTさん
・主体感によるフィードバック制御の修正
主体感を感じやすくなる/感じにくくなるよう学習することで、検討。差が出た。まぁこの学習って前から言われてるよね。
KOのTさん
・主体的ボタン押しとポジティブ/ネガティブフィードバック
誤帰属が起きて学習に差が出るらしい。これ、主体感なのかなぁ…
・ギャンブル課題
これも説明が微妙なんだよなぁ、課題内容とは違うことに関心が向いちゃったんじゃないの…(責任感の欠如)
論文追記して良さそうだったらのっけます
おやすみなさい。
9日目 夢の科学
どうもおはこんにちばんは、ななみんびーむです。
昨日は更新できなくてすみませんでした、寝不足だったみたいで、帰宅早々ぶっ倒れてました。一応昨日の分まで今日更新しようと思ってるんで、よろしゅう。
今日一本目は「夢の科学」というブルーバックスの本についてです。
そも、ぼくがなぜ夢について興味を持っているかというと、夢の内容完全に作れたらナーブギア作れるくね?と思ってるからです。ちなみに、この本ではそういう話はタブーでした、残念。
では内容をまとめます。
フロイト:夢の内容についての研究(根拠に乏しい)
最近:夢のパターンについての研究(夢の中での感情とか)
夢を見ている時の脳活動について
・記憶を思い出せない
・論理的に考えられない
睡眠と生存
・精神が狂う
・身体的ダメージ(痩せたり肌が荒れたり)
・記憶、学習への作用
ぼくが気になったのは学習への作用ということで、例えば脳には「学習が終わったら逆に自ら誤差を生み出して学習し直す」みたいな機能があった気がする(確か)。この機能を使うのは、きっと起きている間よりも寝ている間に仮想空間を生み出してやる方がずっと効率がいい。あとは記憶を短中期ゾーンから長期ゾーンに移し替えるときにどうやっているかはわからないが、短中期ゾーンの神経回路をそっくりそのまま移植することはできないが、短中期ゾーンが発火して長期ゾーンに同じような神経回路を作ることはできるのかなと。それが夢の正体だったりするのかなーとは思った、全くわからん。
8日目 意識の謎に挑む
どうもおはこんにちばんは、ななみんびーむです。
今日は肉体労働をして疲れているのですが、書かないのもあれなので少しだけ書きます。
今回は金井良太さんの「意識の謎に挑む」というpdf資料を読みました。だいぶ昔にネットから拾ってきたもので、金井さん自身がtwitterで公開してたみたいです(今拾えるのかは知らない)。
あまり意識を研究しようという気はないので、さらっと内容まとめて終わります。
意識のハードプロブレム = 脳の情報処理になぜ現象的意識が伴うのか
意識と関連する神経活動(NCC; たぶんまだ計測不可能)
メタ認知、信号検出理論
アクセス性
IIT(あとで論文読みます):公理、ほんまかなぁ
クオリア:意識の最小単位と位置付けた
以上、まぁ、どうでもいいかなぁ…
7日目 意識について
どうもおはこんにちばんは、ななみんびーむです。
今日は、意識とは何かについて考えてみたいと思います。
そも今回は、倒れてる人に対して「意識ありますかー?」みたいな場面で使う「意識」(=意図的に運動できる状態)ではなく、内的世界(クオリアとか、そういう類のものを想像してください)について議論します。
見ての通り、ぼくはニヒル的な神経専攻の人なので、意識とそれ以外の脳の活動について切り分けて考えてみたいと思います。
例えば運動は、意識がないとできないと思いますか?我々は今、意識がある状態でこの問題を考えていますが、それがなかったとしたらどうでしょうか。
意識がないという状態は感覚入力が何もない世界である、と思う人がいるかもしれませんが、それは違います。感覚入力が意識的に理解されないだけで、無意識的には処理される、という世界線です。このような状況ではおそらく、フィードフォワード制御的な運動もフィードバック的な運動もできるでしょう。なぜならどちらも意識というものがなくても行うことができるからです。
そも、視覚や聴覚などの感覚が意識の構成要素として必要なんでしょうか?
先ほど挙げた例のように、入力の後に出力を返すようなものであればいいはずなので、なくてもさほど問題がないように思います。意識の構成要素としてそれらがまず思い浮かべられるが、必須ではないように思います。
ここまでの議論は、すべて哲学的ゾンビのようなものを知っていればすんなり理解できるでしょうか。
では意識とはなんなんでしょうか。
意識の役割を考える前に、我々が意識だと思ってるものを考えましょう。
ぼくは、意識だと思ってるものは脳全体による外界のシミュレーションだと思っています。なぜシミュレーションが必要なのか、という話は置いておいて、これ自体はさほど難しくないはずです、脳全体の神経活動を適切な配置で取ってくればいいだけなので。どう取ってくるとかはわかりません、そも取ってくるという解釈が間違っていて、発火していればそれだけで内的世界に組み込まれるような仕組みがあるのかもしれません。
内的世界が必要な理由とはなんでしょうか。
それは外的に解決し得ない何かを内的に行うためではないでしょうか。つまり、運動などの外的事象にとって意識は必要ないという話をしましたが、思考などの内的現象にとっては内的世界が必要だったのではないかと考えています。
運動するためには感覚入力と出力モジュールさえあればよく、意識なんかなくとも適切な接続さえできればそれは成り立ちます。ですが、(少なくとも自分は)感覚-反応の連関だけでは、ヘッブ則のような単純な神経活動の変化で説明されるような嗜好の変化などはともかく、このような(?)多様な思考を行うことは許されないはずです。早い話、ロボットのような存在になるのではないか、ということです。なぜなら、感覚入力を受けて運動出力のみを返す存在というのは、さながら人間に適切な感覚-運動処理を任せて、自らは感覚入力を受け行動出力を行うだけの存在と同じでしょう。自らの感覚入力や運動出力を見つめる行為こそが意識なのではないかと思います。
Je pense, donc je suis. って感じですね。