7日目 意識について

どうもおはこんにちばんは、ななみんびーむです。

 

今日は、意識とは何かについて考えてみたいと思います。

 

そも今回は、倒れてる人に対して「意識ありますかー?」みたいな場面で使う「意識」(=意図的に運動できる状態)ではなく、内的世界(クオリアとか、そういう類のものを想像してください)について議論します。

 

見ての通り、ぼくはニヒル的な神経専攻の人なので、意識とそれ以外の脳の活動について切り分けて考えてみたいと思います。

 

例えば運動は、意識がないとできないと思いますか?我々は今、意識がある状態でこの問題を考えていますが、それがなかったとしたらどうでしょうか。

意識がないという状態は感覚入力が何もない世界である、と思う人がいるかもしれませんが、それは違います。感覚入力が意識的に理解されないだけで、無意識的には処理される、という世界線です。このような状況ではおそらく、フィードフォワード制御的な運動もフィードバック的な運動もできるでしょう。なぜならどちらも意識というものがなくても行うことができるからです。

 

そも、視覚や聴覚などの感覚が意識の構成要素として必要なんでしょうか?

先ほど挙げた例のように、入力の後に出力を返すようなものであればいいはずなので、なくてもさほど問題がないように思います。意識の構成要素としてそれらがまず思い浮かべられるが、必須ではないように思います。

ここまでの議論は、すべて哲学的ゾンビのようなものを知っていればすんなり理解できるでしょうか。

 

では意識とはなんなんでしょうか。

意識の役割を考える前に、我々が意識だと思ってるものを考えましょう。

ぼくは、意識だと思ってるものは脳全体による外界のシミュレーションだと思っています。なぜシミュレーションが必要なのか、という話は置いておいて、これ自体はさほど難しくないはずです、脳全体の神経活動を適切な配置で取ってくればいいだけなので。どう取ってくるとかはわかりません、そも取ってくるという解釈が間違っていて、発火していればそれだけで内的世界に組み込まれるような仕組みがあるのかもしれません。

 

内的世界が必要な理由とはなんでしょうか。

それは外的に解決し得ない何かを内的に行うためではないでしょうか。つまり、運動などの外的事象にとって意識は必要ないという話をしましたが、思考などの内的現象にとっては内的世界が必要だったのではないかと考えています。

運動するためには感覚入力と出力モジュールさえあればよく、意識なんかなくとも適切な接続さえできればそれは成り立ちます。ですが、(少なくとも自分は)感覚-反応の連関だけでは、ヘッブ則のような単純な神経活動の変化で説明されるような嗜好の変化などはともかく、このような(?)多様な思考を行うことは許されないはずです。早い話、ロボットのような存在になるのではないか、ということです。なぜなら、感覚入力を受けて運動出力のみを返す存在というのは、さながら人間に適切な感覚-運動処理を任せて、自らは感覚入力を受け行動出力を行うだけの存在と同じでしょう。自らの感覚入力や運動出力を見つめる行為こそが意識なのではないかと思います。

 

Je pense, donc je suis. って感じですね。